メソ

昨日一日でいつもの倍、100以上のアクセスがありました。そんなに多くの人に見てもらうような事は書いていないので申し訳ないです。ドラマチックな失恋や絶交の話でも書いたほうがいいでしょうか。

 

マルタン・メソニエがプロデュースしたアルバムを最近まとめて聴いています。もちろん一連の80年代偏愛の流れからですが。シェブ・ハレドとか、品があるんですよね、どこかしら。キング・サニー・アデは元々大好きで、プロデュース作ではない「Return of Juju King」もこないだ買ったのですが、素晴らしいです。都会的なシンセサイザーが効いてるエスノを、「ミッドナイト・エスノ」なんて名付けると自分の聴く傾向が分かるかと思います。絵的に言うならば、ルースエンズのジャケのイメージです。

 

そういえば再評価著しいマライアの清水靖晃がソロで出した「サブリミナル」も、マルタン・メソニエのプロデュースなのでした。こちらもこないだ聴きまして、すごく奥深いなあと感心しました。ものすごくざっくりと「非西洋音楽の、西洋音楽的ブラッシュアップ」がメソニエメソッドだとして、「サブリミナル」はやはり様子が違います。ジャパニーズオリエンテッドなエレメントは87年には当然日本の「街場の音楽」では無いわけで、清水/和オリ、メソニエ/和オリ、清水/メソニエ、それぞれに独自のオリエンタリズムというか「距離」を持ち、故に二重三重に脱構築というか、相対化させる視線がこのアルバムには張り巡らされているように思えるんです。それでいて当時性・緊張感よりも普遍性・音の楽しさのほうがヨリ横溢している。だから「当時のエスノ・ブーム」が聴いていてもさして浮かび上がってはこない分、常にどこかしら新しく聴けちゃうところがあります。これは是非「いま」聴いてほしい音楽です。

 

というかこれ、よく考えたらanoutaのタンブラー(トレンディ歌謡に抱かれて)で書けばいいんですよね。近々そうします。

 

若山

 

 

ピエロ

出張というか視察は、2018年のことを考えるための仕事の一環でした。どうしてそんな先のことを考えなければならないのでしょう。最悪死んでいるかもしれないのに。本社に戻るとキムタク似が「目にテープとんできたら身も蓋もない(?)っしょ。最悪死に至る」と大声で話してて、直帰すればよかったと思いました。

 

アパートメントからパーティーのメールが届いていました。アパートメントとは集合型のブログサイトで、運営に携わってる友人の縁で、今年の春に「anouta」で書かせてもらいました。恥を忍んで打ち明けますが、その時連載した文章は、「カフカ式練習帳」を、自分(たち)なりにやってみようという目論見で書かれたものです。そして結果、これはその...もう本当に、何というか、あの...ただただ謝りたい出来となってしまいました。

 

冷静に考えればわかることですが、自分に「カフカ式練習帳」など書けるわけがないのです。これじゃあただのつぶやきの寄せ集め、という感じでした。もうひとりのanoutaに無理言って3分の1くらいを書いてもらい、なんとか形にしたのです。発端としてもうひとつ、「国語の先生に褒められるような文章」が集まってしまうことにとても抵抗があり、何とかそうじゃないものを書きたいというのもありました。しかし書けば書くほど、何がしかの抵抗にもカスっていない、という思いが強まるばかりなのでした。なんとか挽回しようと突然ビートたけしを憑依させて書いてみたりもしましたが、やはり一緒でした。

 

素晴らしいZINEを作っている友人が「あれを失敗とか言っちゃだめだよ」と慰めてくれたのは嬉しかった。先月明け方の新宿で、サイト運営に携わっている友人ともバッタリ会いました。彼は「面白かったですよ!」と言ってくれました。本当に優しい奴です。だけど、ぼくはパーティーに出て、「ゴージャス松野の年金未納号泣記者会見」のように、誰も求めていない謝罪をするべきなのです。この2016年秋、それくらいのピエロっぷりがぼくには相応しい。

 

若山

 

 

悪人

「悪人」を出会い系アプリを活用して帰ってきてから観るもんじゃないですね。「怒り」の前哨戦のようなつもりで借りてきたのですが。Twitterを定期的に見なくなって、ネタバレが皆無なのが何よりです。

 

樹木希林のコントさながらの「擬婆」っぷりに心底萎えた以外は面白かったです。純愛を祀り上げそうな瞬間がけっこうあってヒヤヒヤしましたが、そうじゃなかった。人を殺した妻夫木と庇う深津、ふたりが愛し合いながら逃亡するのですが、警察に捕まる直前、妻夫木が深津の首を絞めるのです。ここで「愛し合う」を頂きに仰ぐ秩序が崩れます。この「不可解な首絞め」は「双方向」から「一方通行」へのドラマの切り離しのようなものと映りました。この切り離し行為が愛だったのかどうかは、はっきりと描かれていません。ただこの世には、「一方通行」がそれなりの必然を持って存在するのだということだけは言えそうです。「あいつは罪を犯したのだから悪人だ」という認定などはそうでしょう。そういえば恋愛については、厳密にいえば実証できるのは自分の気持だけで、どんな状態であれ、「一方通行」であるより他ないと思うことがぼくはあります。

 

明日は出張なのにうっかり語りまくってしまいそうです。ろくに本数観てない人間の映画論ほど興ざめするものは無いですね。ところでぼくが今日「出会い系アプリ」で待ち合わせした彼は、「彼氏を作ったことが無いし、そもそも"彼氏"とは何なのかわからない」と最後に言いました。その気持ちわかる~、と言えちゃうのが悲しいのですが、しかしまあ、それをぼくに言わないでくれよと思います。「不可解な首絞め」から関係を始めようとするようなもんじゃん、と...

 

若山

 

 

 

笑い

寝る前にYoutubeで見ちゃうのはお笑い動画です。いまぼくはとにかくハリウッド・ザコシショウが大好きなんです。彼のモノマネは2兆個あるといいます。まだ10くらいしか見ていないのですが、全て見てみたい。

 

特にお気に入りは田村正和のモノマネです。決め台詞の「ハンマカンマ」が何かと取り上げられることが多いですが(これだって相当ヤバいもんだと思います。古畑任三郎のあの、眉間に手を当て唸ったり笑ったりしながら喋る言葉尻が、ザコシショウにはハンマ~カンマ~に聞こえるらしいのです。ぜったい聞こえない)、それより小道具のカツラが面白い。検索して見てもらうのがてっとり早いとは思いますが、パーマ頭のカツラの下にロングヘアーのカツラをかぶり、耳の両サイドからもみあげ風に出しているのです。田村の全体的なふんわりパーマを、極端なパーマサイドとストレートサイドにセパレートさせているということです。田村的にはアイデンティティの分裂・崩壊もいいとこでしょう。が、不思議とシルエットは似ていて「真似ている」ことは辛うじて分かるところが憎たらしい。「似せる」ということは「再現」とは違うんだなあと痛感します。

 

友近ロバート秋山の「予備校コント」も大好きで何十回も見ました。ふたりが夫婦で予備校講師として回っている、という設定で、秋山は「予備校講師あるある」をすごく器用に演じるのですが、友近のほうはどうも「公立学校教師あるある」に見えます。一昔前の清楚さで、その割に言葉使いが「男性的な荒っぽさ」を持ってて... 「ニッキョーソ」と揶揄したがる一群の頭の中には、こういう人物が仮想敵として存在するのかもとちょっと思いましたが、この造形にいちばん近いのは、皮肉にも片山さつきです。

 

普段生活してて、大笑いしてしまう時ってどんな時でしょう。ぼくが忘れられないのは、今は渋谷区に住んでいる友達カップルが茨城に住んでいた時にトランプをやったことです。瞬発力が求められるゲームで、揃った瞬間に手を出さなきゃいけないのに、思わず「揃った!」とか「あっ!」とか必要のない声を出してしまい、何度やってもワンテンポ遅れて永遠にゲームから上がれないのです。本当に何度やってもダメなのです。たかがトランプと思うでしょうが、こういうのが一番面白い。

 

若山

 

 

 

 

 

WMD

大阪のDJの友達がレコードプレイをユースト中継していて、さっきまで聞いていました。デルフォニックスサム・クックアレサ・フランクリンといった「ニューソウル以前」に混じってピチカート・ファイヴの「聖三角形」がチョイスされていて、ああこの感じがWMDだなあと懐かしく思いました。

 

WMDは、毎年春に大阪で開催されている「渋谷系」をテーマにしたDJイベントです。小西康陽さんが毎回ゲストDJとして登場します。anouta二人は5年くらい前から毎年遊びに行っています。年度末だったり連休前だったり、割と忙しい時期なので仕事をしたあとで新幹線に飛び乗るのです。イベント終了後もレコード屋を回るくらいで特に観光もせず1泊で帰ります。今年は日帰り(始発の新幹線で帰京)に挑戦したのですが、さすがに疲れ果ててしまいました。

 

それ以外で遠出というのをほとんどしないせいか、最早「遠出=大阪=WMD」くらいに個人的にはなっています。イベントの間はとにかく「楽しい!!」という気持しかないです。小西さんは「必殺」としか言いようのない選曲ですし、友達のプレイも回を重ねるごとに「場を作る」感じになってます。チャーミングな女の子や、ハンサムクンとも友達になりました。「イベントでみかけて、すごく格好良くて...」みたいなメッセージももらったり(本当です信じてください)。ちょっとあいだで抜けて食べた餃子もすごく美味しかった。

 

だからぼくにとって大阪は、「夢のように楽しい夜の場所」以外の何物でもないのです。そこまで言って委員会とか橋下徹とか、存在しないに等しい。今後もそういう場所であり続けるんでしょうね。

 

若山

 

 

 

読書

小林秀雄賞を受賞した(全然知らなかった)エッセイ「月日の残像」で山田太一は、自身の抜き書きの趣味について書いています。抜き書きでも傍線でもいいのですが何らかのアクションをしながら進める読書というのは、やはりヨリ強く脳に焼きつくものなのでしょうか。同エッセイは抜き書きの話とは別に、意外なところで意外な引用が挟まるのが面白いのです。それは山之口獏だったりフェリーニのインタビューの一節だったりします。

 

自分の場合、読書量が減っているというのもありますが(今月に入って読んだのはハーラン・エリスン平岡篤頼の昔の小説いくつか、守中高明詩集、BL進化論、伊佐山ひろ子のエッセイ、ブレイディみかこ新刊、再読でペソア、といったところ)、日々の生活で誰かの一節がふと浮かぶということがあまりありません。詩というのも浮かぶには浮かぶのですが、割といつも一緒です。エリオットとか、友部正人とか。後者はまあほとんど歌詞ですが... あと、昨日のような再会があると決まって「西塔はげんきだ。望月も。際だって」という、友達が書いた一節が浮かびます。元気であれどうであれ、お互いに知らない部分が増えているなあというのが再会です。知ってる人の知らない部分、知ってるのに知らないというある種の薄気味悪さに、この一節は何故か映えるのです。

 

いちばん真剣に本を読んでいた頃は、いつも枕頭に稲垣足穂があったように思います。言わずと知れた、宇多田ヒカルのフェバリットです。全然チェックしていないで書くので無責任なのですが、宇多田と林檎のあれは「卍」なのでしょうか。谷崎潤一郎も確か宇多田の愛読書だったと思いますが、やっぱり宇多田の「こっちじゃない部分」(ざっくりしてますスイマセン)をこそ林檎はフックアップしていくのだな、虚しい...と一瞬思ってしまいました。もちろん出たらちゃんと聴きますけどね。

 

固有名詞ばかり書いて疲れてしまいました。

 

若山

 

 

 

パンピー

高校の時の友人に会ってきました。1度目の引っ越しを手伝ってもらって以来ですので、もう4年会ってなかったことになります。すっかり丸くなっていて、「太ったな」と言うと「痩せたな」と返されてしまいました。

 

誰でもそうだとは思いますが、かつての友人というのは常日頃は遠くに感じていても、話し始めたら近くに戻ってしまうものです。昨日会ったかのように話していると色々なことがわかりました。何年か前にWebにアップしていた自作の曲を、どうやら彼は聴いていたようなのです。そこからひも解いて、自分のセクシャリティについてもおおよそ把握したのでしょう。彼は「どっちでもいい」と言いました。そしてぼくらはドラマでもBLでもないので「そりゃそうだ」と思ってこの話は終わりました。

 

今何をやっているか、という話をするとやはり間が空いていきます。懐かしい話をしました。今はワタミの信者のようになっている共通の友人の話。その友人が片思いしていた派手な女性の話。etc、etc。

 

そのなかで、今はプロのスポーツ選手になっている知り合いの話になりました。知り合い、と書いたのは彼に高校当時良い印象が無いからです。悪印象の元となった具体的な行為については書くのを省きますが、この学校はスポーツをやらない人間を「パンピー」と呼んで蔑むおかしな風潮があり、その風潮の中でいちばんイキイキとした存在でした。

 

その彼が、2年前から重い病と闘っているというのです。ぼくは何も知りませんでした。友人に写真を見せてもらいました。日々どんな体調で、どんな風に日々スポーツを続けていくべきか、というシリアスなインタビュー記事です。スキンヘッドであることを除けば、体調の悪さを感じさせる写真ではありません。しかし一目で、自分の生きた高校卒業後と、まるで違う歩みであったということを何故か判ったのでした。

 

ぼくも友人も、彼に会いに行くということは無いんだろうなと話しました。だけどやっぱり、いなくなるのはやめてほしい。自分とどこまでも関係の無いまま、良いものも悪いものも含みながら、遠くへとまだずっと、歩き続けてほしい。

 

若山