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ひとつ

今日は会社で広告代理店の方の講演会がありました。現在の広告にまつわる話なのですから当然暗いトーンで始まり、他社がいかなるユニークな企画・アイデアで難局を乗り切ろう(としている)かという事例で話は終わりました。その「ユニーク」のなかに自分の会社の某事業が入っていたのには苦笑してしまいました。その事業が誰のどんな思惑の積み重ねで作られたか、みんな知っているのです。すごく能動的なようでいて、本当はどこにも「主体」がない。架空の主体。とにかく主体を欲す、というのは代理店も一緒のようで、その講演でも頻りに「一丸」とか「共通の〇〇」という言葉が挟まれます。「ひとつ」の強さがとにかく、この界隈では流行のようです。

 

4マスに勤める知人とプライベートで話をすると、必ずシビアな方向に持って行かれます。お互いのシビアさを自慢しているようになってしまいそれはそれで嫌なのですが、そういう時に話しててあれれと痛感するのは、自分が仕事の悩みを「ずっと抱えてはいない」ということなんですね。びっくりするくらい「どうでもいいこと」になっています。スイッチの切り替え、などと言えるものじゃありません。自分の出来事がどうも「ひとつの自分」に繋がっていかないのです。そのくせ各自分に重く堆積していく経験や狡猾さというものがあり、これはスギゾ的というのとも違うのだろうと思います。

 

ぼくがなにかをやろうと思うにつけて直ちに「手も足も出なさ」を感じてしまうのは、「ある自分」が「別の自分」を牽制するからです。これを美点と思ってくれる人もいるにはいるようですが、どうなんでしょう。ひとつに没頭するのなら、もうひとつは忘れてしまうべきなのだと、思ってはいるのですが...

 

若山