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可能性

目白駅から山手線に乗るとき、いつも目にとまりモヤモヤしてしまう広告があります。なんてことはありません、どこの自販機にも貼ってある、笑福亭鶴瓶が起用された麦茶の広告です。そこにはやや低年齢向けにコミカライズされた笑福亭と共に、「ミネラルゴクゴク」と書かれています。ミネラルゴクゴク。果たして麦茶は、「ミネラル」を「ゴクゴク」する飲み物でしょうか。

 

調べる気はありませんが、実際に何かに絶大な効果を発揮するミネラル成分(?)が、決して緑茶烏龍茶では摂取できない量含まれているのかも知れません。夏休み・実家・扇風機・野球帰りなんて言葉を並べれば、ゴクゴクもまあ麦茶の在り方としては適切でしょう。しかし「ミネラルゴクゴク」と並べると、何か得体のしれない、濁ったスポーツ飲料がどうしても想起されませんか。「ミネラル」も「ゴクゴク」も麦茶なのに、「ミネラルゴクゴク」は決して麦茶ではない。麦茶の多面的な魅力を知りすぎたために、かえって麦茶がどんな奴なのか、わからなくなってしまっているような風です。

 

笑福亭鶴瓶は「自分が面白くない」というようなことをよくトーク番組で言っています。ぼくは相米映画の彼も、(実家で昔よく見ていた)「家族に乾杯!」の彼も割と好きですが、「面白くない」と自称している時の彼は、どうしても好きになれません。その時の話相手である「(相対的に)面白い誰か」に、何かを譲りすぎているような、そこに嘘というか「盛り」、あるいは却って飛び道具的な期待を望んでいるような感覚、が混じってるような気がどうしてもして、白けてしまうのです。

 

相対的にダンディ坂野の面白くなさ、を思い出すとそれは全然違います。ダンディは面白くなさを誰にも投げたりはしません。いや、お客さんの前には投げているのですが、でもそれはすべて「ダンディの円環構造」に収まるものです。ダンディの面白くなさは「小粋なアメリカンジョーク」という、妙に豊かな(根拠不明の)歴史性を孕みながら、決して「迷い」や「不安」を見せることなく、想定内の安心へと自らを回収していきます。

 

「こうあるしかない」という、ある種の「可能性の無さ」でもって活動を持続している人がぼくは好きなのです。自分は可能性ばかり想定してすべて先延ばしにしています。

 

若山