何年ぶりかの新譜について、いろいろ

エリック・ロメールのオールナイト上映を近所で観たあと、明け方家に着いてラジオをつけると小沢健二の新曲が流れてきました。すでに二日前に入手していた(詩人の友達にも買わせてしまった...)のですが、そのラジオが初聴だったらどれほど感動しただろう!と些細な並行世界を思いました。FMの音質独特の「街場」感にこの曲は良く合うし、そういえば昔スティーリー・ダンのことを何やらそんな風にも歌っていたのでした。

 

しかしソフトを買い、「対面して」聴くのもそれはそれでならではの発見があります。ぼくが初めて小沢健二を聴いたのは「暗闇から手を伸ばせ」という曲で、それはTV番組のエンディング・テーマだったから知ったのです。板東英二千堂あきほのガヤガヤの奥で鳴るその曲は当然正確に聞き取れず、黒っぽいコード進行(もちろん小6当時はそんな言葉で解釈していない)だけがぼんやり印象に残りました。ちゃんと音源を買ったのは翌年の「ラブリー」です。今回の新曲を聴いて思い出したのはその時のことで、ぼくが彼の音楽に先ず思ったことは「わ、音がヘン...」なのでした。うまく説明がつかないのですが、「密室ファンク」とか形容されるものにある音の封じ込めかたを、その歪な良さを保ったまま、かつ開放させていく感じです。それってやっぱり本人に、密室フレンンドリーな「いじけ」が無いからできるのでしょうか。その「まずヘンな音」という実も蓋もない感想が、20年越しの新曲と対面して聞くとこれはもう、ハッキリ湧き上がりました。嬉しかったですね。ライブでは気付けない、小沢にしか無い魅力でしょう。

 

ところで94~95年当時、小沢健二はぼくの周りで妄信も敬遠もされてはいませんでした。王子様でもヤなインテリでもなく「ヘンな奴」だったしぼくもそう思っていた。ロッキン・オンとか読んでたら違ってたでしょうが、情報源である新星堂の新譜告知に載るアー写は、ステキのかけらもないおかしなアングルのどアップでした。曲もその延長に聴いていた。ヘンな人が作るヘンな音と声のいい曲、と...「さよならなんて言えないよ」もいちばんのポイント(と当時思ったの)は「オッケーよ」のヘンな野太いコーラス。知的、とまあ思えたのはジャジーな96年になってからです。「ある光」は高校生で、ここでやっと歌詞に撃たれその悲しみもわかり(この曲は聴いて即購入しました)、今の一般的な小沢認識に近付きます。要するに彼の全盛期に、歌詞をほとんど聞いちゃいないのです。これは自分のポップス原体験が「すべては君と僕の愛の構えさ」「オイルの切れた未来のプログラム大事に回してる」という歌詞を書くアーティストであったことに由来するかもしれません。なにしろ当時小4でしたから、詞を「かみ締める」みたいな気持ちの置き方はどうしてもおざなりになってしまいました。好きになったのがB'zだったら違ったでしょうね。B'zはどれもかみ締め甲斐のある歌詞です。

 

しかしこの間ついにリリースされたその「原体験のアーティスト」の新譜の歌詞を、これ以上できないというくらいかみ締めて聴いているというのは何ともおかしな話です。未だに半笑いの視座しか持てない人は、ラストに置かれた「しゃぼん」という曲だけでも聴いてほしい。音がどう、ミックスがどう、アートワークがどう、ということはどうでもよくなります。

 

「自分」から始まり「自分」に終わるのが須らく「軽蔑されるべき自己愛」ではないんですね。何かの代償だったり、嘘が混じったりするあたりから、自己愛は何やら、周りにとって疎ましいものになる。これは歌詞がアーティストの内面吐露であるという前提の話です。そうとしか思えないので続けますが、彼は徹底的に自分を信じています。歌詞中「君」は出てきますが「自分」にとって「君」は自分の認識に固定されたもの、一方的なものとして捉えられているように思えます。アルバム中にラブソングが無いという指摘は、より正確に言えば「関係」が無いアルバムということで、これは他者不在の謗りを免れないかもしれません。しかしこの新譜の驚異的な力強さは、その徹底した「自分」邁進の、意地と貫徹の結晶である故としか思えない。

 

「人間関係をサボるな」と、同世代のミリオン・アーティストである桑田佳祐は一度目の逮捕のときコメントしていましたが、これはおそらく根拠のある話なのでしょう。「この寂しさはどこから来るんだろう」とは前述の「しゃぼん」の歌詞ですが、寂しさの理由が桑田のコメントの事情によるのは、ブログを毎日眺めていればなんとなくわかります。しかし歌詞はその寂しさのくだりのあと「それでも、それでも、ああそれでも」と力強く歌われ、そしてその(寂しさあっての)「それでも」こそこのアルバムの最大のエネルギー源なのだ、ともどうしても思えるのです。

 

若山