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新譜から更にいろいろ

「神秘的」の多重コーラスを聴いて「ドルフィン・ソング」を思い出した人は多いと思います。そもそも小沢のひとり多重唱ってソロ作品では今まで無かったのではないでしょうか。ぼくは小沢の声が「脇に回る」こと(といってもリードも小沢なのですが)に、フリッパーズ・ギターの「萌え」をありありと思い出してしまったのでした。

 

自分の中の「フリッパーズ・ギターの萌え」はたぶん解散後に彼らを知ったのでなければ発生しなかったと思います。どこにいても「主役」だなあと思っていた小沢がそうでない役割にいた、というのが自分にとっては重要だったのです。主役でない理由はひとつしかなくてそれは「もう1人いるから」で、そう書くと当たり前のようですがそれだけのスゴイ人が「もう1人」でなければいけませんし、そこには「関係」があります。コーネリアスは中学のときの自分には「理解できない文脈-曲の引用元とか、レーベルのデザインとか-」がいっぱいあって、その遠さが「もう1人」にふさわしいと言う感じでした。

 

主役でしかいられない、それをみんな当たり前に思うくらいスターな人(というかその人が持ってる個性)が脇に行くとき、「前進」とは違う力を感じるのです。まっすぐじゃない力、全体を押し上げる力。ちょっと切ない力。なぜちょっと切ないのか?...壊れやすいからでしょうか。わかりませんが小沢だけでなくルーのコーラスをするボウイ、さらにはジェームス小野田リードのときのカールスモーキー石井にすらその魅力はあります。この「魅力」の正体は何なのか、ゲイ故どうも萌えが過剰にあるのでうまく言えないのがもどかしいですが、そこには、主役の独壇場よりも「本当」が、というか「曝け出し」があるのではということは思います。これたぶん恋愛関係ではダメなんです。その意味でBLはファンタジー云々と言う話はここではしませんが、とにかく「お互いがお互いを思う」じゃないところからの視点が、「関係」にはどこかしらあるのです。

 

「原体験のアーティスト」グループにもそれは言えます。ブログでの吐露や緊急出版より、相方のリード曲「Here & There」(現時点でのラストシングルです)で二番から歌に入ってくるあの瞬間にこそ「本当」を、というと大げさなら「彼が1人の人間として存在し生きているということ」を感じられる。そう個人的には思っています。

 

若山