チキン

昨日「RADIO SAKAMOTO」を久しぶりに聞きました。坂本龍一は「商業主義に毒されたスポーツイベントってのは、ほんとに気色悪い」と、(バルセロナの閉会式のことは置いといて)ごくまっとうなことを言っていましたが、開催期間中にラジオやTVはおろか、TLですらこういった言説は見られなかったことに思い当りました。もちろん自分も発信してはいないのですが。ぼくも今後はちゃんと正直に、「ほんとに気色悪い」とつぶやかなきゃなあと思いました。

 

ラジオ内では「今聴いている音楽」を紹介していました。サントラではない、新しいオリジナルアルバムを制作中とのことなので、そこに反映すると思しきそのチョイスが、ザ・ノーマル(ダニエル・ミラーのソロプロジェクトです)やアイク・ヤード、さらにはエリアーヌ・ラディーグだったのですごく嬉しくなってしまいました。いずれも80年代に発表された音楽ですし、ひょっとしたら「今がわからない」故のチョイスだったかもわかりません。しかしここから「かなり直に接続された今の音楽」の一群が、どれも素晴らしいものであるということを大方の人は知っているでしょう。新作もそこに届くものであってほしいです。

 

ところで。今日はジャックド(ゲイ向け出会い系アプリ)で、とてもショックなメールがやってきました。夜の9時くらいだったのですが、なんだかショックでその後しばらく仕事が手につきませんでした。

 

ぼくはある男性を「お気に入り」に登録したのです。「お気に入り」は登録されたことが相手に通知される仕組みになっています。それを受けての彼の返信が、こうだったのです。

 

「お気に入りありがとうございます!とてもチキンみたいですね!」

 

「気になってメールしました」とか「近所なので会いたいです」とか、そういう直のやり取りを最初からできないような奴は「チキン」だと彼は言いたいのでしょう。その通りな部分もあるし、そうでない部分もあるというのが正直な思いなのですが、しかしこうしたアプリで早々にこんな言葉を受け取るとは。大体こんな言葉を受け取って、自分に返信すべきどんな言葉がありましょう。まあ「勤務時間は仕事しろ」ということですね。

 

若山

 

 

 

今日は友人に鍼灸の治療を受けてもらっていました。治療といっても本格的なものではありません。彼の鍼灸実技の実験台になった感じで、手の甲と背中の何か所かに数回、針と灸をうってもらいました。ぼくは右手の腱鞘炎がかなり慢性的なものとなっていて(ガットギターの弾きすぎ、と言いたいところですがおそらくスマホのいじりすぎ)、それに効く治療なのだそうです。たちどころにダルさが消え、とはなりませんでしたが、手首の灸の直後は確かに、少し症状がひいた気がしました。熱くはなかったです。

 

東洋医学の脈診断は「六部定位脈診」と言うそうです。手首の上部から3か所(寸、関、尺と言います)、両手首なので計6か所の脈を指で測り、その強弱や手触り、形状の差などで、身体のどこが不調なのかがわかるそうなのです。西洋医学にこうした診断の根拠があるのかどうかはわかりません。ただ大学病院のような場所でも症状によって漢方薬を出されるのは事実です。ぼくが去年に患った「耳管解放症」も西洋医学の処方箋というものが無く、漢方薬で治療しました。因みにこの病気、中島美嘉の持病だそうで、彼女が歌う時にものすごい中腰になるのは同じ症状を持つ者としては「あーわかる...」という感じです。

 

この脈診断を初めに友人にやってもらいました。友人はちょっと困った顔をして「どこの脈にも差がない...たぶん悪いところが特にないのだと思う」と言いました。皆さん、ぼくは健康ですので会うたび「痩せた?」とか訊かないでください。

 

若山

 

風景

学校で働いている、まるで弟のような(と勝手に思っている)友人が先月北海道に旅行に行っていたそうで、いろいろな写真をSNSにアップしていました。彼とぼくは似ていないのですが、ちょっとした視点で急に一致するところがあります(故に弟のようなのです)。彼は北海道各地の、関東とやっぱりちょっと違うところ、にすごく惹かれているようなのでした。それは「県民性」と括られるものとちょっと違います。それぞれの街がさまざまな発展と衰退を経ている故の、歴史の積み重ねが顕著に出ている部分、とでも言いましょうか。グーグルマップの情報で申し訳ないのですが、例えば旭川駅は、駅の北側は幅の広い道路と百貨店のある中核都市らしい佇まいなのに、忠別川に面した南側はまるで自然公園のような空間が広がっています。こんな景色のギャップは関東では絶対見られません。駅の位置も含め、きっと独自の歴史があったんだろうと思います。

 

会社の別部署に、何となく木村拓哉っぽいけれどもどうも格好良くない、という人がいます(というよりも、木村拓哉という人がむしろ「格好良くない人の突然変異」なのだと思っています)。彼の故郷は山口です。今日おみやげを持って自分のフロアにやってきたので、故郷がどんなところなのか、少し話をしました。

 

その会話の中でぼくは「この辺(関東)といちばん違うとこってどういう点ですか」と尋ねました。車を使わないと生活できない、コンビニが遠い...そんな答えが自虐めいて返ってくるのを漠然と予想していました。両親ともに東京出身である自分の、若干オリエンタリズムめいた気持ちもあったかも知れません。

 

しかし彼の答えはまったく違うものでした。「見える夜空の星の数が違う」と、誇るでも卑下するでもなく答えたのです。グーグルマップでは、見える星の数の違いは知ることができません。関東以外に親戚も仕事のあても無く、旅行も滅多に行かないぼくには知る由もない風景を、キムタク似は知っているのです。

 

若山

 

可能性

目白駅から山手線に乗るとき、いつも目にとまりモヤモヤしてしまう広告があります。なんてことはありません、どこの自販機にも貼ってある、笑福亭鶴瓶が起用された麦茶の広告です。そこにはやや低年齢向けにコミカライズされた笑福亭と共に、「ミネラルゴクゴク」と書かれています。ミネラルゴクゴク。果たして麦茶は、「ミネラル」を「ゴクゴク」する飲み物でしょうか。

 

調べる気はありませんが、実際に何かに絶大な効果を発揮するミネラル成分(?)が、決して緑茶烏龍茶では摂取できない量含まれているのかも知れません。夏休み・実家・扇風機・野球帰りなんて言葉を並べれば、ゴクゴクもまあ麦茶の在り方としては適切でしょう。しかし「ミネラルゴクゴク」と並べると、何か得体のしれない、濁ったスポーツ飲料がどうしても想起されませんか。「ミネラル」も「ゴクゴク」も麦茶なのに、「ミネラルゴクゴク」は決して麦茶ではない。麦茶の多面的な魅力を知りすぎたために、かえって麦茶がどんな奴なのか、わからなくなってしまっているような風です。

 

笑福亭鶴瓶は「自分が面白くない」というようなことをよくトーク番組で言っています。ぼくは相米映画の彼も、(実家で昔よく見ていた)「家族に乾杯!」の彼も割と好きですが、「面白くない」と自称している時の彼は、どうしても好きになれません。その時の話相手である「(相対的に)面白い誰か」に、何かを譲りすぎているような、そこに嘘というか「盛り」、あるいは却って飛び道具的な期待を望んでいるような感覚、が混じってるような気がどうしてもして、白けてしまうのです。

 

相対的にダンディ坂野の面白くなさ、を思い出すとそれは全然違います。ダンディは面白くなさを誰にも投げたりはしません。いや、お客さんの前には投げているのですが、でもそれはすべて「ダンディの円環構造」に収まるものです。ダンディの面白くなさは「小粋なアメリカンジョーク」という、妙に豊かな(根拠不明の)歴史性を孕みながら、決して「迷い」や「不安」を見せることなく、想定内の安心へと自らを回収していきます。

 

「こうあるしかない」という、ある種の「可能性の無さ」でもって活動を持続している人がぼくは好きなのです。自分は可能性ばかり想定してすべて先延ばしにしています。

 

若山

 

ひとつ

今日は会社で広告代理店の方の講演会がありました。現在の広告にまつわる話なのですから当然暗いトーンで始まり、他社がいかなるユニークな企画・アイデアで難局を乗り切ろう(としている)かという事例で話は終わりました。その「ユニーク」のなかに自分の会社の某事業が入っていたのには苦笑してしまいました。その事業が誰のどんな思惑の積み重ねで作られたか、みんな知っているのです。すごく能動的なようでいて、本当はどこにも「主体」がない。架空の主体。とにかく主体を欲す、というのは代理店も一緒のようで、その講演でも頻りに「一丸」とか「共通の〇〇」という言葉が挟まれます。「ひとつ」の強さがとにかく、この界隈では流行のようです。

 

4マスに勤める知人とプライベートで話をすると、必ずシビアな方向に持って行かれます。お互いのシビアさを自慢しているようになってしまいそれはそれで嫌なのですが、そういう時に話しててあれれと痛感するのは、自分が仕事の悩みを「ずっと抱えてはいない」ということなんですね。びっくりするくらい「どうでもいいこと」になっています。スイッチの切り替え、などと言えるものじゃありません。自分の出来事がどうも「ひとつの自分」に繋がっていかないのです。そのくせ各自分に重く堆積していく経験や狡猾さというものがあり、これはスギゾ的というのとも違うのだろうと思います。

 

ぼくがなにかをやろうと思うにつけて直ちに「手も足も出なさ」を感じてしまうのは、「ある自分」が「別の自分」を牽制するからです。これを美点と思ってくれる人もいるにはいるようですが、どうなんでしょう。ひとつに没頭するのなら、もうひとつは忘れてしまうべきなのだと、思ってはいるのですが...

 

若山

 

この半年間のできごとについて

デヴィッド・ボウイの死の1日前、ぼくは新潟にいました。そちらの友達やイベントに来ていたアーティストの先輩と名物の「ノッペ」なんかをつまみながら、新作の新しさが「老い」を担保に成り立っている...なんてことをしゃべっていたと思います。1日で「最新作」が「遺作」に変化することをその日はまだ知りません。

 

シーナが亡くなった翌週に、細野晴臣はラジオ番組で97年の彼らのアルバム「@Heart」から「オールズモービル・ロック」という曲をかけています。「まるでミック・ジャガーのようだ」とシーナの声をそのとき評していましたが、ぼくにはまるで違って聞こえていました。音の丸さ。すっとぼけ方。コンセプトの一部だった初期インターネットの、そのあまりの楽天性。そこと現在のモードの近似を細野さんに耳打ちする人がいれば、待たれる新作はおそらくまるで違うものになるはずです。

 

 今いくよ・くるよの漫才をよく聞いていたのは去年のことです。80年代、90年代の彼女たちの漫才を聞いていると、当時の「ボケ」がすなわち「壮大な嘘」であることに気付きます。「くるよちゃんどないしたん、そんなとこから足だして」「腕やちゅうねん」-これは「あるある」とは真逆のやりとりです。いつから、というか誰から、テレビのお笑いは「あるある」的発想が主流になったのでしょうか。

 

プリンスのライブ映画の追悼上映、泣きたくないと思ったのにやっぱり泣いてしまいました。プリンスのバンドには女性が多くいて、必ずそれぞれに見せ場があるのですが、意外と「男女関係」のせめぎ合いと関係無く見せ場が作られているんですね。シーラEの圧巻のドラムプレイも、やはり見ているうちに色気など吹っ飛んでしまうほど、プレイヤビリティにこそ焦点が当てられます。プリンスの、男性として、でない君臨の仕方。 I am something that you'll never understand、とはよく言ったものです。

 

追悼上映と言えばキアロスタミ。その上映回でぼくのとなりに偶然、40代の有名俳優が座りました。テレビや広告で見る彼の姿とほぼ一緒ではあったのですが、何かが違います。その何かとは、首です。ぼくは鑑賞中も横目でちらちら見ながら、昔アプリで出会った40代の人を思い出していました。その人が「今更ホワイトバンドを付けていた」ことにも幻滅したのですが、何よりその年相応に年輪が刻まれた、だるんとした首に、「脈なし」と判断したのでした。しかし実際には、有名俳優ですらあの首なのです。もう一回会ってみて「年輪」の深くにもっと魅力を探るべきだと、今なら思えます。

 

 

 

 

anoutaの新しいZINEを作るにあたり、受けを狙うとか、だれかのつぶやきに反応しつつとか、もしくは紙媒体に載せるものとしてとかそういうんじゃない書き物をしたいと思いました。思いつくまま、面白くしようとしないまま、文章をろくに校正もせず書くことが、ZINE制作のアティチュードとしてはいちばん大事なんじゃないか、そして自分に最も欠けている部分もそこなんじゃないか...

 

そんなことを思いこのブログを1か月だけ開設することにしました。Twitterへの依存を少し減らしたいという気持ちもあります。そのTwitterで「逆張り」というレッテルを張って(というか、誤用して)目線の均一化を強いるような人たちをぼくは軽蔑していますが、例えばその軽蔑をここで文章にしたくはありません。

 

こうこうこうでこう、というんじゃない文章を書きたいと思います。果たして毎日書けるのでしょうか。やってみないとわかりませんが、やってみます。

 

若山