読書

小林秀雄賞を受賞した(全然知らなかった)エッセイ「月日の残像」で山田太一は、自身の抜き書きの趣味について書いています。抜き書きでも傍線でもいいのですが何らかのアクションをしながら進める読書というのは、やはりヨリ強く脳に焼きつくものなのでしょうか。同エッセイは抜き書きの話とは別に、意外なところで意外な引用が挟まるのが面白いのです。それは山之口獏だったりフェリーニのインタビューの一節だったりします。

 

自分の場合、読書量が減っているというのもありますが(今月に入って読んだのはハーラン・エリスン平岡篤頼の昔の小説いくつか、守中高明詩集、BL進化論、伊佐山ひろ子のエッセイ、ブレイディみかこ新刊、再読でペソア、といったところ)、日々の生活で誰かの一節がふと浮かぶということがあまりありません。詩というのも浮かぶには浮かぶのですが、割といつも一緒です。エリオットとか、友部正人とか。後者はまあほとんど歌詞ですが... あと、昨日のような再会があると決まって「西塔はげんきだ。望月も。際だって」という、友達が書いた一節が浮かびます。元気であれどうであれ、お互いに知らない部分が増えているなあというのが再会です。知ってる人の知らない部分、知ってるのに知らないというある種の薄気味悪さに、この一節は何故か映えるのです。

 

いちばん真剣に本を読んでいた頃は、いつも枕頭に稲垣足穂があったように思います。言わずと知れた、宇多田ヒカルのフェバリットです。全然チェックしていないで書くので無責任なのですが、宇多田と林檎のあれは「卍」なのでしょうか。谷崎潤一郎も確か宇多田の愛読書だったと思いますが、やっぱり宇多田の「こっちじゃない部分」(ざっくりしてますスイマセン)をこそ林檎はフックアップしていくのだな、虚しい...と一瞬思ってしまいました。もちろん出たらちゃんと聴きますけどね。

 

固有名詞ばかり書いて疲れてしまいました。

 

若山